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主な彫物 | 備 考 |
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花岡源助 |
【土呂幕】 正:蜀帝劉備宇玄徳 右:曹操と関羽 左:葭萌関で張飛と馬越と戦う 【見送り】 正:韓信計を定めて三秦を取る 右:項梁と項羽 左:宋無忌 |
現地車は天保11年(1840)岸和田市中町新調(現役最古の下地車) →大正11年貝塚市清児へ →昭和23年和泉市芦辺町(当時は和泉町今在家)へ →昭和34年9月12日和歌山県橋本市東家区へ 先代は昭和初期に地元で製作の子供地車 先々代は御門(上出)、寺脇(北出)、南出の3台を所有 寺脇〔北出〕→明治29年住吉大佐にて新調 →大正期に河内長野市松ヶ丘へ 御門〔上出〕→奈良県五条地区へ?昭和47年ごろ五条駅前で目撃した地車の金具に「御門」の文字があったという証言があるが?失火で焼失説あり。 南出→明治初期に住吉大佐より購入(元は住吉区若宮神社氏地にて新調か?) →大正期に河内長野市片添町へ →平成20年橋本市柏原区へ |
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開正藤・ 開生a・ 玉井行陽 |
【土呂幕】 正:脇坂甚内赤井影清を刺す 右:秀吉本陣佐久間の乱入 左:前田犬千代初陣 【見送り】 大坂夏の陣 |
現地車は昭和11年貝塚市半田にて新調 →平成17年橋本市市脇区へ(平成17年5月29日購入入魂式) 先代は次項を参照 |
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市脇 |
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西岡弥三郎 |
【飾目】 獅子噛三面 【出人形】 富士の巻狩、仁田四郎猪退治 【見送り】 正:素盞鳴尊八岐大蛇退治 右:天竺斑足王 左:中国武将(人物不詳) |
この地車は江戸末期〜明治初期に堺の方違神社氏地にて新調 →明治30年前後に橋本市市脇へ →平成17年現地車購入に伴い町内にて保存中 新調時の詳細は不明だがその特徴から大工は堺金田村の河村新吾、彫師は彫又西岡弥三郎、修理時に屋根裏より堺市の方違神社のお札が出てきたことから、元は氏子仲の榎、瓦町、花田口のいずれかで所有され明治29年8月の地車騒動で手放されたものと推測。「大佐地車請取帳」の明治30年の頁に「和歌山縣紀伊伊都郡橋本町大字市脇」とあるので大佐経由で購入と思われる。購入時は解体搬入され当地で組まれたことで異型であったらしく、昭和28〜9年頃に住吉大佐13代川崎佐太郎が図面持込みで元通り組み直し、これにより新調当時の形態を残す貴重な地車である。一般的に板勾欄出人形式堺型といわれる型式だが出人形が通常よりかなり多く施されており、板勾欄の源頼朝の大日傘から「傘だんじり」の異名をとる。見送り出人形に「堺彫師 西岡弥三郎」の刻み銘があるが、弥三郎の銘がこのような目立つ所に刻まれることは極めて珍しく、西岡弥三郎渾身の作と思われる。 |
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山内安太郎/ 一元正(野村正) |
【土呂幕】 正面:巴御前の勇戦 左右:源平合戦(平将門の勇姿) 【見送り】 大坂夏の陣 |
現地車は昭和5年岸和田市池尻新調 →平成9年泉大津市南曾根へ →平成21年泉大津市南曾根地車新調に伴い大下工務店にて保管 →平成23年橋本市小原田区へ(購入に伴い台木・一部彫物交換の大修理、搬入は平成23年8月6日、入魂式は同8月28日) 先代は明治20年岸和田市積川西新調 →平成2年堺市神石市之町へ →平成7年橋本市小原田区へ →平成23年橋本市学文路へ(平成23年6月5日昇魂式) 先々代は大正10年代新調の担いだんじり →平成7年橋本市紀見区へ |
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彫師不詳 |
【見送り】 正:加藤清正虎退治 右:素盞鳴命八岐大蛇退治 左:三韓征伐安倍介麿龍退治 |
現地車は元は住吉「大佐」12代目川崎宗吉の作で泉大津市の工場敷地内に保存されていた →堺市八田寺の個人が工場買収時に引取り →堺市原田が購入し昭和30年まで曳行し解体保存 →昭和58年堺市原田が彫物を使用して本体新調 →平成17年橋本市橋谷区へ(平成17年11月27日搬入、同日入魂式) 先代は昭和55年新調の町内のみ曳行の小型だんじり →平成17年橋本市学文路へ 先々代は大きな担いだんじり →昭和40年ごろまで使用されたが廃絶 橋谷区の「加藤清正」様の情報提供に感謝! |
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寺田夘之松 |
【土呂幕】 正:朝比奈三郎義秀の勇力錣引き 右:安西三郎富士川合戦 左:今井兼平勇戦 【見送り】 大坂夏の陣 |
現地車は明治28年岸和田市福田町新調 →昭和10年頃岸和田市橋室(積川東)へ(平成13年まで曳行) →平成18年橋本市原田へ(平成18年12月10日搬入、平成19年5月13日入魂式) |
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池内福治郎/ 野原湛水 |
【土呂幕】 源平合戦 【見送り】 千早赤坂の合戦 |
現地車は平成3年堺市南区片蔵新調 →平成24年橋本市古佐田区へ(平成24年6月3日購入入魂式) 先代は江戸末期の製作 →昭和26年五条市阿田町より購入 →平成24年柏原市高井田へ(平成23年12月8日昇魂式) |
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彫又一門 |
【見送り】 正:漢の高祖龍退治 右:天竺斑足王 左:武松大虎退治 |
現地車は江戸末期〜明治初期に堺市某所(陶器方面か?)製作 →明治末期堺市菱木南へ →平成3年堺市北高尾へ →平成14年和歌山県橋本市妻区へ(平成14年10月8日搬入、同日入魂式) |
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【土呂幕】 題材不詳 【見送り】 賤ヶ嶽の合戦? |
現地車は新調時の詳細は不詳 →大正4年岸和田市中尾生町へ →昭和58年高石市7区(北村)へ →昭和63年高石市8区(匠)へ →平成6年岸和田市南上町へ →平成11年堺市中山へ →平成19年和歌山県橋本市紀見区へ(平成19年10月27日搬入、平成20年4月20日入魂式) 昭和48年頃に天野工務店にて大修理、この際に見送りを中心に彫物を追加、彫師は松田正幸など |
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木下舜次郎・ 石田利郎 |
【土呂幕】源平合戦 正:屋島の戦い 右:一の谷合戦 敦盛を呼び戻す熊谷次郎直実 左:粟津合戦巴御前の勇戦 【見送り】 大坂夏の陣 |
現地車は昭和10年和泉市寺門新調 →昭和32年岸和田市大町へ →昭和47年岸和田市摩湯へ →平成2年和泉市寺門へ里帰り →平成21年橋本市北馬場へ(平成21年12月6日搬入、平成22年5月4日入魂式) 北馬場区の皆様の撮影ご協力に御礼申し上げます! |
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(1849) |
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現地車は橋本区内の川原町(かわらまち)の船だんじりで「八幡丸」と呼ばれる担いだんじり(昭和56年より台車を使用)。平成6年から橋本区で管理運営しており、平成9年に和歌山県有形民俗文化財に指定された。伝承では享和2年(1802)に製作、その後凶作のため中断を経て文化8年(1811)に担ぎ出すことを許されたとされる。町内の記録文書によると「金子二十二両をもって新調」とある。 先代も船だんじりであったが明和7年(1770)6月28日の大火で焼失。明治期まで橋本区内の他町にはふとん太鼓があったらしいが現存していない。 |
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担いだんじりで、彫物は先代のものを使用。写真は専用台車が付いている状態。 |
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田沼征信・ 松田正幸・ 木下舜次郎ら |
【土呂幕】 正:後藤又兵衛の跳ね槍 右:真田幸村の勇戦 左:福島正則の勇戦 【見送り】 大坂夏の陣 |
現地車は昭和1−4年和泉市内田新調 →平成18年度内田祭礼の翌日(10月9日)に昇魂式 →平成18年橋本市御幸辻へ(平成18年10月10日搬入、同10月13日入魂式) "加藤清正"さんの情報提供に感謝! |
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彫又一門 (岡村平次郎?) |
【飾目】 前:飛龍 後:唐獅子 小:獅子噛 【見送り】 正:漢の高祖の龍退治 右:雄略天皇猪退治 左:大胡小橋太、鞆六郎を討つ |
現地車は明治3年製作、神額に「轟神社」とあることから住吉区若宮神社氏地にて新調と思われる →明治初期に住吉大佐を経て和歌山県橋本市東家区南出へ →大正期河内長野市片添へ →平成20年橋本市柏原区へ(平成20年11月30日搬入、平成21年9月13日入魂式) |
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西澤大美 |
【見送り】 川中島の合戦 |
現地車は昭和63年大阪府高石市13区(東羽衣)新調 →平成17年橋本市清水へ(平成17年9月25日入魂式) |
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【土呂幕】 正:巴御前の勇戦 右:情報募集中 左:敦盛を呼び戻す熊谷次郎直実 【見送り】 巌流島の決闘 |
現地車は明治20年岸和田市積川西新調 →平成2年堺市神石市之町へ →平成7年橋本市小原田区へ →平成23年橋本市学文路へ(搬入は平成23年6月5日、入魂式は同8月28日) |
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亀田弥七 /彫師不詳 |
【飾 目】 獅子噛三面 【脇障子】 佐々木高綱・梶原景季 宇治川先陣争い |
正しくは学文路天満宮付のだんじりで担い式、屋根には軽量化のため野地板がなく紙を貼る型式。
屋形内部の墨書に「再造」と書かれていることから先代も同様のだんじりが存在したことがわかる。 昭和3年の昭和天皇即位御大典の際に破損し、これ以降は休止保管されている。 |
《ご協力御礼》
妻・橋本の各区画像は古佐田区のI氏にご提供いただきました。誠にありがとうございました。
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